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OPINION/COMMENTARY
 

Opinion No.3  
         Regard (視線)


                  


「あの冬のパリ」の中に Regard と名付けた作品がある。
ある短編映画の話しをしてみよう。

その主人公は人の目にさらされるのを避けようと考える。                
都会を逃げて大きな屋敷に帰り、自分の部屋に閉じこもろうとするのである。

主人公は召使がお茶を持ってくると召使の眼が気になるといって彼女を解雇する。
友人が来ると彼の眼が気になるといって追い返す。
テレビをひねるとアナウンサーの眼が気になってテレビを撤去する。
肖像画があるとその眼が気になるといってそれを撤去する。

このようにして、その主人公はあらゆる”眼”を取り除いていく。
ついに、がらんとして何もなくなった自分の部屋で、イスを置いて座り込む。

「あぁ、やっとこれで、、」と思った時、彼は背後に何かの気配を感じるのである。
ふっと振り返った時、彼が見たものは?
ここがこの映画のクライマックスシーンである。

映画では、カメラが徐々に回っていく、そしてその画面に入ってきたものは?
即ち主人公が見たものは??
それがこのRegard (視線)と名付けた作品であった、、、
というのは本当ではありません。

カメラが映し出したものは主人公の姿だったのです。
即ち、主人公が見たものは自分の姿であり、自分の顔であり、自分の眼だったのです。

「人はあらゆる自分を見つめる視線を取り除いたとしても、自分を見つめる自分の視線を取り除くことは出来ない。」
というのがこの映画の主張であります。

私の作品 Regard (視線) を見た人が、これを誰の視線と感じるか?

自分を見つめる他人の視線か?
自分を見る自分の視線か?




Opinion No.2  
           「
芸術とイメージ」

             

 
最近ある本を読んで”なるほど”と思ったことがある。その本の名は「美学概論」~岩城晃一著、硬い本である。その中に印象的な部分に「イメージとは?」という事柄について記述されているところを見つけた。それを要約してここに紹介したい。


「イメージとは?何かを視覚的に見たときに自分の意識の中に現れる感覚的に現前する像=形象、目覚めた状態で眼に映る物体の知覚像のことである。われわれはこのイメージから逃れることは出来ず、どちらかというとそれは襲ってくるものである。 
恋に落ちた若者はその相手の容姿、表情などの記憶が次々と像となって思い浮かぶ。そしてその恋に破れたとき、悲しみのあまりそのことを忘れようとするが次々とその像は走馬灯のように変化しながら現れてくる。
まさに我々の記憶装置の中に入ったその像は我々の意識の中で、次々とその意識の中のスクリーンの上に現れてくるのである。そのスクリーンはある時は我々の意識の中に、ある時はそこから飛び出し、我々を取り囲み、あらゆる方向からその像を映し出すことが出来る。その像を見つめている我々をも、像の中に現前させ、見せることさえある。
イメージとはこのような我々の意識の中に現れる像のことである。
 
本来人類はその本能的機能の中にイメージを表す感性的機能が備わっている。
しかし幼少のころから物を見て「あれは何ですか?」と尋ねられ、形と大雑把な質感とで統一し名前を付けて言葉として記憶するような教育を受けてきた。イメージDataを整理して言葉で名付けていくこの経験、そしてそれを使いながらさらに経験をすることで自分の持つ感性的機能を使うことを避けるような習性を身につける。
しかしイメージにはこの経験から来る言葉では表現しきれない、捉えきれない細かい網の目のような部分があるもので、それは感性的機能でしか感じられないものなのである。」


人々は自然に「うーん、何と申しますか、あの感じなのですがなあ」といった言い方をするときがある。これが言葉で表現できない細かい網の目なのでしょうか。
 
イメージを表現したものが芸術である。良い芸術(アート)というものは、作者が自分の持つイメージを画面にぶつけて、言葉で定義できるものと、さらに言葉にできない感性的機能でのみ感じる部分(イメージ)を描きこんだ作品である。鑑賞者はその作品を見るときに言葉にできない感性的機能でのみ感じるその部分を感じ取り、その世界に入り込むことが出来る。そしてそれは言葉で表せられない魅力あるものとして評価されるのである。
りんごを例にしてみよう。幼稚園では形を描いて単純に赤色を塗るだろう。それは先生がりんごの形と代表的な色を教えるからであろうか?他方、背景と形とその質感(表面の感触的材質感ほか)を書き加えていくことで言葉で表現できない部分が描かれていく。其処に芸術性が現れてくるのである。

芸術とはそれに触れることで人間の本能機能である感性的機能を大いに働かせることが出来るものである。そしてその評価はどのくらい多く深く感知し機能させることが出来るものであるかによるという事だろうか。




Opinion No.1 
         「インタビュー」


                

ある日新聞社の女性記者にインタビューを受けた。
彼女は聞く
「何故写真を撮るのですか?」
「私が生きていたという証です。」
と私は答えていた。
「レンズの手前には私がいたことは確かだから」





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